アクセス解析
カウンター
【時代のリーダー】西田 厚聰・東芝社長  | 徒然忘備録

徒然忘備録

日日徒然の中で、これはおもしろい!、ためになる!、って記事を忘れないよう「徒然忘備録」として保存してます。 ワタシと同じ価値観持った人向けの情報記録ブログです。
<< ムダこそが大ヒットへの近道――最適化の罠 | main | 武田斉紀の「ブレない組織、ブレない生き方 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | -
0
    【時代のリーダー】西田 厚聰・東芝社長 
       【時代のリーダー】西田 厚聰・東芝社長 言葉の達人、「二律背反」に挑む
                    


       この西田さんなる人は 最近の社長(今はもう会長になっている)の中では
       注目に値する人物。


    昔、NHK・日曜日21時のドキュメント番組で、東芝の紹介があった。
    テーマは、韓国&台湾に追い上げられてる、半導体産業。

    その東芝で、NHKが追いかけたのが、この西田さん。
    その当時は、半導体の事業部長であった。

    日本の半導体産業は、90年代は世界TOPであったが、
    2000年代に入ると、韓国&台湾に追い上げられ、凋落の一途。
    日本の技術者は、ヘッドハンティングによって、部門ごと、韓国&台湾にスカウト
    されてしまう始末。

    それはそうです。
    日本の電気メーカーが、もう半導体産業にはお金をかけない、と宣言。
    半導体技術を引っ張ってきた、日本の技術者は、働く場所、働く意欲が、なくなっ
    てしまった。
    活路は、海外。

    と言うわけで、技術者そのものが流出してしまえば、技術もつつぬけで流れる。


    そんなこんなで、日本の半導体産業は暗雲うずまく環境になったわけです。
    ところが、1社、東芝だけは違った。
    と言うよりは、東芝・西田さんだけは違った。

    東芝は、SRAM(電源が切れても、記憶情報が残っているメモリー)に特化。
    その特長から、パソコンはもちろん、携帯電話やIpodなどに利用され市場が伸びて
    る製品。
    もちろん、韓国のメーカー・サムソンと激烈な市場シェア争いをしている。

    番組では、西室さんが取締役会で、SRAMへの設備投資を力説、なんとかTOP
    承認を
    得ようとしてる姿を追いかけていた。
    同時に、日本の半導体産業をなんとか回復しようトガンバっている西田さんの姿
    も。

    そのドキュメントでは、
    取締役会で一度保留の決定がなされたが、再度、取締役会に上提。
    この投資をしないと、サムソンとの差が開きジリ貧になるとの予想から、設備投資
    GOの
    承認が得られた。
    西田さんの笑顔で、「これからが勝負です」と。

    西田さんのもうひとつの顔が
    クリスチャンで、死ぬ直前までいった病気を経験。
    奥さんは外国人
    これから、人生も並の人ではない。
    ブレない、日本の代表的経営者でsる。

     


    2005年12月25日(日) 午後9時〜9時52分
    NHKッスペシャル 再起への20年
    第8回 トップを奪い返せ 〜技術者たちの20年戦争〜

     激しい国際競争が行われている
    半導体・フラッシュメモリー

    巻き返しを目指す東芝の半導体技術者たち

     日本を追い抜いた
    韓国の半導体メーカー・サムスン電子
    「産業のコメ」と呼ばれ、エレクトロニクス分野の技術革新をリードしてきた半
    導体。80年代後半、日本メーカーは記憶用半導体DRAMでアメリカを追い抜
    き、世界一の生産量を実現。中でも東芝は、長期戦略に基づいて技術者と投資を集
    中させ、DRAM市場の50%を握るトップ企業になった。
    しかし、バブル崩壊が半導体の勢力地図を一変させる。資金繰りの悪化から日本
    の各メーカーはやむなく投資を削減、その間にアジア勢が急激な成長を果たしたの
    である。その筆頭となったのが、現在、世界の電機業界に君臨する韓国のサムスン
    電子だった。サムスンは、日本からの技術移転を進めるとともに、ばく大な投資を
    DRAMに注ぎ込み、世界一の座に上り詰めていく。一方、失速した日本の半導体
    メーカーは大規模な再編を迫られ、東芝もDRAM生産からの撤退を余儀なくされ
    ていった。
    どうしたら再び半導体王国に返り咲くことができるのか。東芝は今、携帯電話や
    デジタルカメラなど、デジタル情報機器に欠かせない半導体・フラッシュメモリー
    で巻き返しを図っている。全社を挙げて今後3年間で半導体に5000億円を超え
    る投資を行うことを決定、先行するサムスンに対抗する計画を打ち出した。
    世界のトップを再び目指す技術者たちの努力を追いながら、ハイテク日本を復活
    させるために必要な戦略を探っていく。



    日経ビジネスが描いた日本経済の40年
    2009年7月27日(月)

    【時代のリーダー】西田 厚聰・東芝社長
    言葉の達人、「二律背反」に挑む
    日経ビジネス
    西田 厚聰 東芝

    先行きが見通しにくい2009年。困難な時代には新しいリーダー像が生まれるはず
    だ。これまでも企業経営や政治に新しい時代を切り開いたリーダーがいた。そんな
    時代のリーダーを日経ビジネスが描いた当時の記事で振り返る。
    (注)記事中の役職、略歴は掲載当時のものです。

    * * *


    2007年10月1日号より

    言葉を操り、価値観が違う社員や顧客の心をも動かす。
    相反する2つの目標を追求する「二律背反」が経営の軸。
    西田流マネジメントの根底には、「哲学者」の姿があった。

    =文中敬称略(大竹 剛)



    西田 厚聰(にしだ・あつとし)氏
    1943年三重県生まれ。70年東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、73年東
    芝のイラン法人に入社、75年東芝入社。84年から欧米でパソコン事業を担当。95年
    パソコン事業部長、97年取締役、98年常務、2003年専務、2005年6月社長に就任し現
    在に至る。(写真:村田 和聡) 7月18日午後1時半、西田厚聰は横浜市にある生産
    技術センターで、350人の技術者を前に熱弁を振るっていた。生産技術センターを訪
    れるのは、社長に内定してから早くも6回目となる。西田肝いりの直轄組織、イノ
    ベーション推進本部が主催する「イノベーション巡回」と呼ばれる活動の一環であ
    る。

    冗談を交えて会場を沸かせながら、経営の状況から株価の動向へと話は流れ、イ
    ノベーションの話題に差しかかると一段と熱がこもった。

    「イノベーションがなければ成長できない。そのためには『応変力』を高めてほ
    しい。応変とは、状況の変化に対応し、自分たちも変わることだ」

    例えば、ライバルの値下げに単純に値下げで対抗しては能がない。打ち負かすに
    は、イノベーションで新たな対抗策を編み出すことが欠かせない。

    西田は言葉の力を重んじる。社長就任時には「イノベーションの乗数効果」を
    キーワードに掲げた。経済学者のシュンペーターが主張するイノベーション理論と
    ケインズの乗数効果理論を結びつけたもので、開発、生産、営業がそれぞれイノ
    ベーションを起こせば、足し算ではなく掛け算で効果が生まれるという。

    だが、同じキーワードを使い続けると言葉の力は衰えてくる。そこで今年からは
    「応変力」を説く。「慧敏」という言葉も好んで使うようになった。「俊敏も機敏
    もスピードだけ。『慧』には状況をよく見極めるという意味がある」。単語1つにも
    徹底的に思いを込める。

    社長就任前からこだわり続けてきた言葉がある。生産技術センターでの訓示では
    応変力に続いて飛び出した。

    「イノベーションの本質は何か。それは『二律背反』の事柄を同時に達成するこ
    とだ」

    この「二律背反」という言葉にこそ、西田の経営哲学が凝縮されている。

    「我が社は利益重視でシェアは追いません」「将来への先行投資と考え、まずは
    シェアを確保します」

    企業のトップからこんな発言を耳にすることが多い。だが、西田は違う。

    「利益かシェアか、品質かコストか、差異化か標準化か。かつては二律背反的な
    要素のどちらかを二者択一すればよかった。しかし、今やパラダイムが変わり、二
    律背反という本質的な課題を解決しないと勝ち残れない」

    西田はパソコン事業を通じて、こうした考えが確信に至ったようだ。1985年に東
    芝が世界初のノートパソコンを発売して以来、西田はパソコン事業に深く関わって
    きた。欧米の販社を13年間渡り歩き、営業の前線で米マイクロソフト会長のビ
    ル・ゲイツらIT(情報技術)企業トップとシリコンバレーで親交を温めてきた。

    そこで見たのは世界的な水平分業の威力だった。猛烈な勢いでデジタル化が進
    み、部品から製品まで自社で作る垂直統合型の日本的なモノ作りは、もはや通用し
    ない。西田が育てたパソコン事業を分析すると、二律背反の両立にこだわる意味が
    見えてくる。

    2004年3月期、パソコン事業は474億円もの損失を出した。デジタル機器全般を統
    括していた西田は古巣のパソコン部門が業績の足を引っ張るのに忸怩たる思いを抱
    いたに違いない。社長の岡村に「1年で黒字化する」と宣言し、パソコン担当の社内
    分社の社長に降格。自ら再建の陣頭指揮を執った。

    自前主義と決別しパソコン復活
    東芝のノートパソコンは「ダイナブック」のブランドで高級路線を突き進ん
    だ。1997年3月期には900億円もの利益を稼ぎ出す。

    だが、2003年に米インテルがノートパソコン向けの半導体を発売すると、米
    ヒューレット・パッカード(HP)や米デルの攻勢で一気に価格が低下。ノートパソ
    コンは汎用品になった。

    生産を絞れば部材の調達コストが上昇し利益を圧迫する。高価格帯に逃げ込んで
    も、機能の大半がインテルの半導体とマイクロソフトのOS(基本ソフト)「ウィン
    ドウズ」で決まるため差別化しにくい。世界でHPやデルと勝負する以上、「シェア
    より利益」という二者択一の手法はもはや成立しない。

    西田は自前主義と決別した。HPなどと同様に台湾メーカーへの設計・生産委託の
    比率を増やし、固定費を圧縮。一方、部材の共通化で調達コストを削減した。ノー
    トパソコン市場の拡大に備え増産体制を強化するとともに、コストを削減し利益を
    確保する二律背反の体制を整えたのだ。垂直統合型の自前主義にこだわる松下電器
    産業やシャープなどと比べると対照的である。

    社長になった今は、二律背反を全社活動の軸に据える。西田の右腕がイノベー
    ション推進本部長で副社長の古口榮男だ。古口は言う。「今は何でもありの世
    界。コストで勝ち、品質で勝ち、製品で勝つには二律背反しかない」。

    以前から「シックスシグマ」を東芝流にアレンジした改善活動は実施してい
    た。しかし、社内カンパニーや分社単位での活動が中心で、本社は深く関与してこ
    なかった。西田はそれを本社主導のプロジェクトに変えた。

    イノベーション推進本部が中心となり、難易度の高い技術の開発や品質改善、コ
    スト削減など年間数十件のプロジェクトを選出。その中から重点項目を抽出し本社
    費から年間100億円程度を投じて活動を支援する。

    西田流のイノベーションは、燃料電池のような新製品に直接結びつく開発だけで
    はない。むしろ、コスト削減や品質改善などに重きを置く。パソコン事業では品質
    改善活動がイノベーション推進本部の後押しで成果を出し、国内市場で低価格競争
    を仕掛ける。パソコン事業を担当する上席常務の下光秀二郎は「品質向上がコスト
    競争力を高めた」と話す。競合他社と比べると不良品の発生率は1ケタ少ないとい
    う。

    合理性と情熱をバランス
    西田は二律背反の両立を戦略の軸にする一方で、社員の行動にも二律背反的要素
    を求める。判断や決断を間違わないためには合理性の重視は必要だが、感情に突き
    動かされる突破力も不可欠だという。

    「人間というのは合理的な側面と、泣き、怒り、喜び、あるいは悔しく思う非合
    理的な感情を持つ。人間そのものが非常に二律背反的存在で、経営においてもいか
    に人間の二律背反のバランスを保つかが最も重要だ」

    パソコン事業の再建に取り組んだ時は、冷静にHPやデルの実力をベンチマークし
    て合理的な戦略を実行すると同時に、「撤退やむなし」と繰り返し言い部下から悔
    しさをバネにした情熱を引き出した。社長に就任してからは工場や研究所など現場
    に110回も足を運んだ。生産技術センターの訓示は30分の予定が1 時間に延び、中堅
    社員との対話会に1時間40分、続く懇親会は1時間半、酒を酌み交わしながらの2次会
    で1時間、議論を続けた。

    「情熱だけでは目標は達成できない。しかし、ライバルに追いつき、追い越して
    差を広げるには、強い意志の力が必要。熱い情熱がないとダメだ」

    パソコン事業を復活させ、WHを買収できたのも、西田自身が合理性と負けず嫌い
    という二律背反的な要素を併せ持つからだろう。30年ほど前に西田と出会い、能力
    を見込んで幹部に引き上げてきた相談役の西室は「できない理由を考える社員が多
    い中で、西田さんはどうやったらできるかを考える人だった」と振り返る。

    情熱が強すぎて周囲が止めに入ったこともある。

    ノートパソコンを開発し、西田の上司としてパソコン事業を牽引してきた、元専
    務の溝口哲也は打ち明ける。「かつてパソコン事業部長を任せた時、リソースが足
    らず状況が厳しいのにデスクトップ事業を『どうしてもやる』と聞き入れず、事業
    を縮小させるのに苦労した覚えがある」。

    二律背反の両立は極めて難しい。それは、過去の経験から西田自身が痛いほど分
    かっているはずだ。それでも西田が二律背反にこだわるのはなぜか。それを解くカ
    ギが、学生時代にあった。

    学者が経営者に転向した訳
    ここに1冊の雑誌がある。岩波書店「思想」1970年8月号。西田が27歳の時に寄稿
    した論文が掲載されている。タイトルは「フッサール現象学と相互主観性」だ。西
    田は東京大学大学院で、丸山真男や福田歓一に師事しながら、修士課程ではフッ
    サール、博士課程ではフィヒテの研究を通じて政治哲学の学者になることを目指し
    ていた。

    相互主観性とは、分かりやすく言えば、人間は異なる主観を持つ存在であるとい
    う前提に立ったうえで、相互にコミュニケーションを図ることで共通の主観を作り
    上げることが可能であるとの考え方だ。個人主義の社会で、人と人とはどのように
    して結びつくかを研究する学問と言ってもよいだろう。

    西田の1年後輩に当たり、修士課程で西田とともに福田に学び、現在は成蹊大学法
    学部教授の加藤節は、「西田さんは一貫して相互主観性に関心を持っていた」と言
    う。だが、西田は博士課程の途中で象牙の塔から降り、東芝の門をたたく。

    なぜ、学者の道を諦めたのか。西田は「1つの理由ではないが、誰にも語らないこ
    とにしている」と口を閉ざす。恩師の福田にすら転身の理由を詳しく説明していな
    かった。ひっそりと、学生結婚した妻の出身地であるイランに渡り、東芝のイラン
    現地法人に就職する。本社に入社したのはその2年後だ。

    結婚がきっかけか。博士論文に行き詰まったからか。丸山、福田という大御所に
    はかなわないと悟ったからか。加藤は、西田がつぶやいた一言を今でも覚えてい
    る。

    「学者の世界では自分の人生が全うできない気がする」

    だが、西田はビジネスの世界で学生時代に解決できなかった未解決の哲学的テー
    マを探究し続けているようだ。

    前社長で現在会長の岡村は言う。「西田さんの経営者としての神髄は、コミュニ
    ケーション力。単なる対話ではなく、相手の立場や知識に近づき、最終的に心を動
    かす」。

    ライバルとの競争では、徹底したベンチマークと情報収集で敵の立場に立つ。技
    術者相手に議論する時は、事前に技術論文まで読みこなし、中堅幹部との対話会で
    は相手が納得するまで議論につき合う。海外でスピーチする時は、英語はもちろ
    ん、独語、仏語、中国語で直接、語りかける。スピーチは時に数十分間にも及
    ぶ。聴衆の心をつかむには努力を惜しまない。スピーチの前日は会食も早々に切り
    上げ、1人でホテルの部屋にこもる。ネーティブスピーカーが読み上げるスピーチ原
    稿を録音したテープを聞きながら、練習に励む姿も部下に目撃されている。

    西田は打ち明ける。

    「大学院の時から持ち続けているテーマとして、認識と利害の関係がある。人間
    の利害と無関係な、純粋で正しい認識は成立するのか。これはまさに二律背反だ
    が、いまだに私には解決できない。今でも解こうとしている」

    人は物事を認識する時、利害や偏見が邪魔をして正しく認識できないことがあ
    る。だから、自分自身を突き放して、様々な立場から物事を見つめ直すことが重要
    だというわけだ。

    「一歩引いて真理を認識する。それは非常に難しい。この訓練はずっとやり続け
    なければならないし、唯一、実現できるとすれば、それはコミュニケーションの先
    にしかない」

    冷徹に利益を追求すると同時に物事の真理を探究する──。経営者と哲学者という2
    つの顔を持つがゆえに、西田の行動は必然的に二律背反的になる。言い換えれ
    ば、その葛藤を克服することこそ、人生の目標かもしれない。

    負けず嫌いの原点、故郷にあり
    政治哲学が西田の論理的思考の原点だとしたら、情熱の原点は海山町にある。現
    在は市町村合併により三重県紀北町へと名前を変えているが、その名の通り海と山
    に近い、「権兵衛の種まき」の民話が伝わる小さな町だ。西田はこの町で中学・高
    校時代を過ごした。

    名古屋駅から新宮駅に向かう特急で尾鷲駅まで2時間20分。そこから各駅停車に乗
    り換えて最寄りの相賀駅まで10分。ただし、名古屋からの特急は休日で1日5本しか
    なく、特急に乗れなければ4時間近くもかかる。そこに西田が育った町がある。

    西田が育った家は、相賀駅からさらに4kmほど離れた集落にあった。山と川に挟ま
    れた小さな土地に60軒ほどの家屋が軒を連ねた山村である。小学校の教師の息子
    だった西田は、分校の校庭の隅に建てられた小さな教員宿舎で生活し、毎日、相賀
    駅のそばにある中学校まで40〜50分かけて徒歩で通学していた。

    1番でなければ気が済まない
    中学時代の同級生は12人。男子は3人しかいなかった。その中の1人で、高校時代
    も西田と同じ学校に通った水谷文憲は、西田のことを「努力家でものすごく負けず
    嫌いだった」と表現する。

    こんなことがあった。水谷の家にも西田の教員宿舎にも風呂がなく、近所の知り
    合いの家に「もらい風呂」をしに行く時だ。西田は教科書を持参し、風呂に入る順
    番を待っている時に薄暗い電球の下で熱心に勉強していたという。学んだことを分
    かりやすく教えるのもうまかった。

    また、中学3年のある日、西田の家に遊びに行くと、日の丸の手ぬぐいをねじり鉢
    巻きにして勉強していた。机の前には努力目標が幾つも張られ、西田は「気がつく
    と夜が明けていることもあるんだ」と打ち明けた。

    2番になるのが嫌いで、高校の時、壁に張り出される試験結果を見て1番になれな
    かった科目があると「悔しい」と言い、次のテストでは1番に返り咲いたという。得
    意科目は英語。「語学の西田」と呼ばれた。

    稲刈りが終わった田んぼで、よく軟式野球をした。中学時代はバスケットボール
    部、高校時代は硬式野球部に所属したスポーツ少年だった。

    しかし、大学受験に備えるために硬式野球部は1年で退部する。東京大学や京都大
    学などトップ校を目指したが失敗。浪人して早稲田大学に入学した。だが、最終的
    に東京大学大学院に進んで政治哲学の第一級の学者に師事する道を選んだのも、負
    けず嫌いな性格と無関係ではあるまい。

    勉強だけではない。遊びでも負けず嫌いは群を抜いていた。

    家の前を流れる銚子川。ダムが建設された影響で今では水量は減っているが、当
    時は水をなみなみとたたえていた。

    西田は「アユの引っかけ」の名人だった。箱眼鏡で水の中のアユを探しなが
    ら、針をつけた竹竿で引っかける。「20匹、30匹と目標を立てたら、その数を捕る
    まで水に浸かったまま唇が紫になっても諦めない。たくさん捕っては仲買に売って
    いた。本を買うお金を稼いでいたのでしょう」と水谷は笑う。

    捕り方も頭脳プレーだ。アユの習性を研究し、岩と流れの関係からアユが巡回し
    てくる場所で待ち伏せするのが得意技。西田は何度も「机上の空論じゃダメなん
    だ」と言っていた。アユの引っかけも、自らの仮説を納得のいくまで検証していた
    のだろう。

    転校と父の教育が育んだ社交術
    西田は三重県熊野市有馬町で生まれた。小学生時代は父の勤務先の学校が変わる
    たびに、三重県尾鷲市周辺を3度転校した。当時、教師の息子は地域社会から一目置
    かれるところがあった。それは、地域社会に溶け込めない危険性と裏腹だった。だ
    が、西田は近所の年配の人たちから「あっつぁん」と呼ばれ、かわいがられるほど
    溶け込んでいた。

    西田が周囲と打ち解ける社交術を自然と身につけた背景には、父親の教育方針が
    あったのだろう。尾鷲周辺では農繁期になると子供たちも稲刈りなどを手伝ってい
    た。西田家は田畑を持たなかったが、西田は父親に命じられ、近所の農家の手伝い
    に行かされていた。

    「朝早く起きてご近所に行き、『おはようございます。今日働かせてくださ
    い』と言う。教わったのが農業です。体で覚えましたよ」(西田)。同級生と同じ
    目線で、同じ体験をする。他者の立場に立って物事を考える西田の経営哲学は、こ
    んなところに原点があるのかもしれない。

    昨年7月、西田は卒業以来44年ぶりに、尾鷲高校の同級会に参加した。その翌日に
    は旧友と伊勢神宮にお参りに行った。炎天下の中、内宮、外宮を歩き午後2時を回っ
    た頃、カキ氷を食べようと店を探し始めた。だが、なかなか見つからない。誰もが
    諦めかけた時、西田は言った。

    「粘らなければアカン、ひるんだらアカン。暑さに負けてはアカン」

    最終的に店は見つかったが、探し始めてから30分は過ぎていた。童心に帰ってう
    れしそうに金時氷を食べる西田を見て、同級生たちはこう思ったという。

    「西田君、何も変わってない」

    2007年10月1日号より


    東芝・西田厚聰|世界を震撼させる「鯨」と「鰯」の二刀流経営(3)
    ウェスティングハウス買収、HD-DVD撤退、半導体大型投資……「破壊と創造」を繰り
    返す男
    プレジデント 2008年10.13号
    美しい日本語で心のこもった師の思い出を語る女性こそ西田と東芝を結びつけた西
    田夫人だった。(全4回)

    ノンフィクションライター 児玉 博=文 鶴田孝介、永井 浩=撮影
    キーワード: M&A 経営者・社長 東芝 企業の活路 Size:    ブックマーク

    岩波書店「思想」に掲載された論文

    西欧政治思想史の泰斗で、日本を代表する政治学者で83歳で亡くなった福田歓一の
    「お別れの会」がもたれたのは昨年の2月。クリスチャンである福田が、かつて学長
    を務めた明治学院大学の一室で厳かに行われた。数多くの教え子を代表して小柄な
    外国人女性が挨拶をした。

    「将来外交官になると先生に約束しながら、実現できなかったことを悔やみます」

    美しい日本語で心のこもった師の思い出を語る女性こそ西田と東芝を結びつけた西
    田夫人だった。

    イラン出身の夫人とは彼女の留学先である東京大学大学院で出会う。西田は早稲田
    大学政治経済学部を卒業後、東大大学院の門を叩き、法学政治学研究科に籍を置い
    ていた。ゼミの担任は福田歓一。丸山真男と並び称された政治学の大家である。東
    大内部からでさえ福田ゼミに入るのは至難の業といわれていた時代、学外から福田
    ゼミに入れたこと自体が西田の学問のレベルの高さを証明している。

    西田夫人は1年後輩だった。西田夫人と同じ学年で、福田に最も近い継承者である成
    蹊大学教授、加藤節によれば、福田の指導は峻厳そのもので、論理的な矛盾などは
    一片たりとも許されるものではなかったという。一語一語の解釈、その言葉の歴史
    的な背景、それを選択した理由などをとことん叩き込まれた。西田は福田が目をか
    けた学生の中の1人だった。

    岩波書店「思想」1970年8月号に当時27歳の西田が寄稿した論文が掲載されてい
    る。タイトルは「フッサール現象学と相互主観性」。修士課程でフッサールを、博
    士課程ではフィヒテを研究していた西田はドイツ語で文献を読み、ドイツ語で論文
    を書いていた。当時、「思想」の顧問をしていた福田がその将来を嘱望し、結
    果、西田の論文が掲載されたのである。実は、修士課程のときに西田と夫人はイラ
    ンで結婚式をあげていたが、結婚を周辺に漏らすことはなかった。


    土光敏夫が決断したイラン現地法人設立

    西田が東大で西洋政治思想を学んでいた頃、当時の東芝社長、土光敏夫は1つの決断
    をしていた。中東、ヨーロッパの市場をにらんだ拠点をイランにつくるために、現
    地法人パース東芝工業が設立された。

    当時、43歳の深田文敏が本社の事業部長に呼ばれ、イラン行きを告げられる。深田
    は横須賀工場で製造部長になったばかりだったが、深田が選ばれた理由は、土光の
    「1番若い奴を選べ」という鶴の一声だった。夫婦で世界地図を見てイランと探した
    ほど未知な国で、すべてが模索しながらの創業だった。蛍光灯、電球の製造に始ま
    り、後には扇風機、電気釜、ミキサーなどを現地生産する工場はカスピ海沿岸の
    街、ラシュトに置かれた。

    現地法人が立ち上がって間もない頃、イラン政府との交渉、言葉の問題などで七転
    八倒していた深田はファルディン・モタメディという女性の訪問を受けた。この現
    地法人で働かせてほしいというものだった。深田を驚かせたのはそのきれいな日本
    語だった。

    「どこで日本語を勉強したの?」

    「東京に5、6年いました。東京大学に留学していました」

    女性の答えに思わず、深田は「凄いじゃないか」といったほどだ。翌日からファル
    ディン・モタメディこと西田夫人は深田の秘書として、それも飛び切り優秀な秘書
    として働き始める。彼女の一族は当時の政権内にもいるほどの名門で、しかも英語
    も堪能だった。

    GEウェルチ氏との極秘プロジェクト

    およそ1年後、彼女は1枚の葉書を深田に見せた。そこには達筆な文字でそちらで働
    かせてもらえないかと書かれていた。訝しげに彼女を見ると、彼氏で現在東大で政
    治を学んでいるとのことだった。

    深田は頭でっかちのモヤシのような姿を想像していたが、深田の前に現れた西田
    は、快活に笑う魅力的な男だった。とても東大大学院で政治を学んでいたような人
    間には思えなかった。すでに恰幅のよかった西田は深田の前に行くと単刀直入にい
    うのであった。

    「私を雇ってくれませんか」

    深田は一瞬逡巡したが、受諾した。もし採用を拒否した場合、有能な秘書、つまり
    西田夫人が辞めてしまう恐れを感じたからと、深田は告白する。

    「西田さんが今日あるのは奥さんのおかげだよ。もし西田さんが東芝に入ってな
    かったら今頃どうなってたんだろうね」

    深田は快活に笑ってみせた。

    当時、イランのラシュトにあった工場の工場長を務めていた吉田英彦の脳裏に
    は、今もテヘランからラシュトに向かう赤茶けた草一本さえ生えていないような大
    地が刻み込まれている。テヘランから300キロ離れた工場に向かう途中、日本でいう
    ドライブインに寄り、羊肉の入ったチャーハンのようなものを注文したときのこと
    である。吉田は、こちらのチャーハンは黒いんだと思った。そして、スプーンを入
    れて食べようとすると、チャーハンは白っぽい色に変わった。黒いのはご飯に集っ
    ていた蝿だったのである。

    吉田はそんな環境の中でイラン人にネジの回し方から根気よく一つ一つを教えて
    いった。ある日、テヘラン本社から西田と名乗る若者がやって来た。西田の存在を
    「東大で政治を学んだ頭のいい男」と聞いていたが、吉田は初めて接する西田に驚
    かされる。とにかくニコニコした、話題が豊富で、実に庶民的な若者だった。そし
    ていつの間にかイラン人の輪の中に入り、談笑しているのだ。一方、西田は、初め
    て身を置くビジネスの世界がどのようなものであるかを気づいていた。

    「会社というところは経理がわからないとなにもわからない」

    数字の意味を理解しなければ会社の動きがわからない。西田はすぐさまテヘランの
    本屋に走り、英語で書かれた簿記、原価計算、財務関係の本を5冊ほど買っては読み
    始める。

    これは西田がイランから帰国後の話になるが、こんなエピソードが残っている。
    西田は東芝内で後に社長となる佐波正一をトップに据えた極秘プロジェクトに主任
    として参画していた。案件は照明で、相手は米GE。GEの担当者は照明担当の副社
    長、ジャック・ウェルチ。米国GE本社にも足を運ぶプロジェクトは粛々と進ん
    だ。そのとき、GEの照明関係の経理担当者と話してみると、西田がイランで経理を
    学んだ本がGEの照明部門の経理の教科書として使われていたのだ。

    西田によれば、経理の本などから学んだものは数字そのものではない。数字の大き
    さ、つまり100という数字が100万円なのか、100億円なのか……、数字はその大きさが
    理解できて、初めて役に立つということを教えられたという。

    異分子を許容しない組織はダメになる

    社長補佐という本来の仕事以外に西田は経理も見るようになった。材料の仕入
    れ、原価計算、工場のそれぞれの工程での歩留まりすべてを計算していった。

    イラン現地法人の生みの親である、土光が訪れたことがあった。工場を案内したの
    は吉田。技術屋出身の土光らしく、工場の一つ一つに熱心に目をやり、技術的な質
    問を飽くことなく繰り返した。吉田らがつくったイラン人の技術者養成所を土光は
    ことのほか喜んだ。
    「イランにこれだけ貢献してくれているとは知らなかった。東芝がやりたかった国
    際貢献とはこういうもんなんだ」

    土光は現地の東芝マンの働きに目を細め、その働きぶりを讃えた。だが、現場を預
    かる吉田たちは大きな問題を抱えてていた。営々として先輩たち技術者が築き、蓄
    えてきた東芝の技術、方法がイランでは通用しない。日本から派遣された技術者た
    ちが頭を抱えているのである。

    購入したスイスや英国製の機械は日本では使ったことのないものばかりだった。日
    本では熟練の域に入っている技術者たちが英文の解説書と格闘しながら、一から学
    ばなければいけなかった。例えば照明の電球。イランの電球のシェア80%以上を占
    めるようになるのだが、当初は日本ではなんの苦労もなくつくれていた電球ができ
    ず、つくっても不良品ばかりができてしまう。

    電球のソケットにねじ込む金属部分を口金というが、イランで入手できる原材料
    を、日本で培ったノウハウでつくってもどうしても“ひび”が入ってしまう。日本で
    は信じて疑うことのなかった東芝の技術をここイランでは、新人技術者のような気
    持ちで一から取り組まねばならなかった。その意味では創造的な破壊がイランでは
    行われていたのである。新しいものを生み出すためには創造的な破壊が必要。こう
    した現場の試行錯誤を西田は目を凝らして見ていたのだ。

    ちょうどその頃である。西田が照明工場を見学していると、たくさんの不良品が出
    ていた。そのことを工場長室にいた吉田に報告した。

    「不良品が随分出ているんですね」

    すると、吉田は西田にこう聞き返すのだった。「何個(不良品が)出てた? 何分
    見てたんだ?」。吉田の質問に訝る西田に吉田はこういうふうにいった。

    「西田な。企業人というのはな」

    そして続けた。

    「たくさん(不良品が)出たじゃ話にならんのだよ。私が1分見ている間に、あるい
    は2分見ている間に、どこそこの工程で何個出たと報告しないとダメなんだ」

    こうして企業人として、技術者的な視点を西田はイランの地で身につけていく。

    「メーカーという会社は数字と技術。なかでも技術が基本になっている」。メー
    カーの本質を理解していた西田は言葉通り数字を学び、技術にも旺盛な興味を示し
    た。

    「吉田さんは照明の専門家なんですよ。なんか1つくらい勝てないかなと思って、照
    明に使うガラスに目をつけたんですよ」

    一時帰国した西田は本社のガラス事業部の技師長を訪ねる。

    西田にはこんな目算があった。ガラスを扱う技術者たちの間で幻の名著といわれる
    『ハンドブック・オブ・グラスマニュファクチャリング』。すでに絶版だった同書
    を技師長が持っているとの情報を聞きつけ、借りに行った。

    驚いたのは先方だった。なぜ自分の宝物をイラン帰りの見も知らぬ若造に貸さねば
    ならぬのか明らかに迷惑顔だった。それを口説き落とし借りることに成功する。合
    わせて2巻の原書だが、読めども読めどもガラスの話が出てこない。ガラスの解説書
    なのにガラスが出てこない。ガラスを精製するために炉をどう構築したらよいの
    か、といった話しか出てこなかったという。西田がプロフェッショナルを志向する
    生き方を物語る一話だ。

    東芝現地法人は軌道に乗ったが、それに反してイランの政治情勢は不安定になって
    いった。緩やかなイスラム教が生活全般に行き渡った穏健なイランは、共産党さえ
    存在する多数政党制であった。ところが、あるとき、一夜にして国王1人の独裁国家
    となってしまった。

    西田は漏らしていた。「これでイランはダメになる」。西田の予言通り、79年、宗
    教指導者、ルーホッラー・ホメイニらによりイラン革命が起き、パーレビ国王は米
    国への亡命を余儀なくされる。

    「矛盾が大きければ大きいほど状況は大きくまとまる。異分子を許容しなくなると
    組織はダメになっていく」

    西田のビジネスマンとしてのスタートはイランという異国の地であった。この地
    で、彼はメーカー企業がどのように動かされ、技術がメーカーにとってどれほど重
    要かを身をもって学んだ。この体験なくして現在の西田の存在はないだろう。

    東芝に必要不可欠な日露原子力協定批准

    同部門はNAND型フラッシュメモリ(NAND)、システムLSI、液晶ディスプレイなどで
    構成。NANDの価格下落で、同部門は08年1Q期決算では昨年と一転して302億円の営業
    赤字へ。東芝連結でも242億の営業赤字。ハイリスクハイリターン事業である。この
    インタビュー中に、西田は原子力ビジネスのカントリーリスクに言及した。

    「カントリーリスクをいい出すと切りがない。当然十分に考えているけれども、あ
    くまで関係はビジネスという観点ですから。国家間の協定などにどっぷりと浸かる
    つもりもない」

    東芝の原子力ビジネスにとって必要不可欠なパートナーであるロシア。グルジアの
    南オセチア侵攻に端を発するグルジア紛争は、ロシアと米国、そしてユーロ諸国と
    の関係を緊張させている。“新冷戦”構造が国際社会に生まれたとする見方も出てき
    ている。

    はたして事はそれほど単純なのか。しかしながら、ロシアに対し、米ロ原子力協定
    の破棄もありうるとロシアに通告した米政府。こうした動きが東芝に必要不可欠な
    日露原子力協定の批准に影を落としているのはいうまでもない。

    世界の枠組みが再び動こうとしているが、世界が再び冷戦構造に戻るというような
    簡単な構図ではない。ロシアを排除して、世界経済が成立するのか。答えは否
    だ。米国への有力な投資国であり、世界最大のエネルギー供給国であるロシア。こ
    の国を国際社会から締め出すことは、グローバル経済の停滞が見え始めた今となっ
    ては、世界経済の自殺を意味する。さらに震源地はロシアだけではない。


    写真を拡大
    同部門は原子・火力・水力発電事業、送変電・配電事業、エレベータ事業などで構
    成。08年1Q期決算では、デジタルプロダクツ部門と並び唯一黒字に。伝統的な重電
    のものづくりの強みを生かせるか。今後、社運を賭けた原子力事業の進展度合い
    で、全社の売り上げ・利益は左右される。中東でのプレゼンスを巡っての争いは熾
    烈を極めている。それはパキスタン、アフガニスタンのコントロールとも密接に絡
    む。経済が世界の矛盾を覆い隠していた時代は終わろうとしている。グローバル経
    済を内側から政治が食い破る動きが出始めている。

    半導体でも東芝の戦略の中核を担ってきた半導体メモリー大手であるサンディスク
    がサムスン電子によって買収されるのではないかとの報道が飛び込んできた。

    東芝はサンディスクとの二人三脚でシェアトップのサムスン電子を追いかけてきた
    だけに、もし買収が実現されれば大幅な戦略の見直しが求められる。

    常に状況は変化し続け、経営者は絶えず決断を要求され続ける。西田がいう“応変
    力”である。西田戦略に陰り、と見る向きも出てきている。確かに東芝を取り巻く環
    境は厳しさを増しているが、だからこそ、西田がさらに何を残すのか、その決断と
    行動からますます目が離せなくなってきているのではないだろうか。

    | 忘備録 | 21:18 | comments(0) | -
    0
      スポンサーサイト
      | - | 21:18 | - | -
      0
        コメント
        コメントする









        自作 動画 リンク集
        CALENDAR
        S M T W T F S
        1234567
        891011121314
        15161718192021
        22232425262728
        2930     
        << April 2018 >>
        SPONSORED LINKS
        CATEGORIES
        RECENT COMMENT
        • 「老人」とは呼ばれたくない!? 高齢者が「こう呼ばれたい呼称」の第1位は…
          Tim (05/26)
        • 「老人」とは呼ばれたくない!? 高齢者が「こう呼ばれたい呼称」の第1位は…
          Tim (05/25)
        • 「老人」とは呼ばれたくない!? 高齢者が「こう呼ばれたい呼称」の第1位は…
          Hiroko (05/24)
        • 2014年夏放送のドラマまとめ 金田一少年やHERO、GTO、孤独のグルメなど人気作 の続編多数
          Tim (09/02)
        • 2014年夏放送のドラマまとめ 金田一少年やHERO、GTO、孤独のグルメなど人気作 の続編多数
          chinon (09/01)
        •  「女性手帳の次は、恋愛手帳?」 少子化政策に透ける “オヤジ”の本音 女性をも気がつかないうちに絡め取る超オヤジ的発想の力
          Tim (08/22)
        •  「女性手帳の次は、恋愛手帳?」 少子化政策に透ける “オヤジ”の本音 女性をも気がつかないうちに絡め取る超オヤジ的発想の力
          本当にあなたは考えますか? (08/22)
        • 子育て終わり韓流追っかけになった妻 夫の食事も用意しない
          Tim (06/01)
        • 子育て終わり韓流追っかけになった妻 夫の食事も用意しない
          コトバの森 (06/01)
        • こんな上司が新入社員を潰す 「本気で叱れば思いは伝わる」は下手をすればパワハラに
          Tim (04/30)
        お気に入りの画像、曲 









        自作スライドショー リンク集
        PROFILE